九鬼海人は、戦国時代に名を馳せた志摩鳥羽藩・九鬼水軍の末裔。鎖国と攝津三田藩への移風で海を奪われた今でも、大型船を駆って外洋に出航したいとの夢を抱きながら蘭学を学んでいた。海人と由布姫の婚礼の日、出島のオランダ船が日本の漂流者をマカオから連れ戻ったとの報が届いた。海人は祝言を延期し出島へ向かうと宣言。驚く両親や重臣を尻目に、海人は船霊様のご神体にすると、由布姫の髪を切り、出島へと向かった。
意気揚々と宮津を出帆した海人と九鬼水軍の末裔達、総勢24名。ところが津波で舵を折られた船は、日本海を漂い、嵐の末にシベリアに漂着してしまう。
―漂着から三年。海人たちはイルクーツクのシベリア総督に帰国の許可を得る為、三千キロを旅して来た。極寒の中、水夫達は一人、また一人と異郷の地に屍をさらしていく。
イルクーツクでは帰国許可の申請がことごとく却下される。海人たちを日本語学校の教師にしようと、申請書は総督の手で握りつぶされていたのだ。海人たちは、皇帝ピョートルIII世に直訴すべく、再びペテルブルクまでの四千キロの過酷な旅に出た。
皇帝ピョートルIII世は、利発で人々の人望の厚い妻・エカテリーナを嫌い、公の場でも愛人を侍らせていた。エカテリーナの懇願で仕方なく謁見を許した海人の帰国許可願いも、エカテリーナへの面当てに却下してしまった。エカテリーナはロシアの男性にはない、海人の自我をも捨てきった誠実さに恋心を覚え、海人も学識豊かな皇后との会話に、世界にはばたく夢を呼び覚ましていた。
そんな中、エカテリーナを皇帝に担ごうとのクーデターが近衛隊やコサック隊の下士官達によって計画されていた。そして海人も、世話になっていたロシア海軍の協力を得てクーデターに加わることになった。ロシア艦隊を率いる九鬼水軍の末裔の運命は……。
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